探訪 杉山 潔志


ならずの柿


 JR木津駅の東北、府道天理加茂木津線に面したところに安福寺というお寺がある。その境内の一隅に十三重の石塔(重要文化財)があり、「平重衡卿之墓」と書かれた柱が立っている。安福寺の本堂は重衡の死を哀れむため、「哀堂」と呼ばれ、本尊の阿弥陀如来坐像は、重衡の引導仏といわれている。安福寺の墓では、800年以上を経た今日まで重衡の命日に供養が行われているとのことである。
 平重衡は、平清盛の五男として1157年(保元2年)ころに生まれた武将で、平家軍の中心として各地を転戦し、従三位左近衛権中将に昇った。
 平家は、瀬戸内海交易や宋との貿易で富を蓄え、清盛の父忠盛は、得長寿院を造進し、その功で内裏の殿上人になり、鳥羽院の近臣としての地位を固めた。忠盛の跡を継いだ清盛は、平家の棟梁として、保元、平治の乱を勝ち抜いて功を重ね、武家初の公卿となり、太政大臣従一位にまで至った。平家一門は、多くの公家・殿上人・受領を輩出し、日本六十六か国の半数余を知行国とし、また、娘徳子(建礼門院)が後白河法皇と建春門院滋子(清盛の妻時子の妹)との間に生まれた高倉天皇の中宮となるなど天皇家とも姻戚関係をつくり、栄耀栄華を極めた。他方で、平家一門は、数々の悪行を行い、清盛も、関白以下43人の公卿・殿上人の官位を奪った後、後白河法皇を城南離宮の鳥羽殿に幽閉し、高倉天皇に譲位をせまって、徳子との間に生まれた3歳の安徳天皇を即位させ、天皇の外祖父となった。
 皇位を断たれた以仁王と老齢の源頼政は平家打倒を計画。以仁王は、各地の源氏に平家追討の令旨を出すが、計画が漏れ、園城寺(三井寺)に落ちた後、南都へ逃れようとした。しかし、平知盛、重衡らの追討軍が宇治で以仁王らを捉えた。宮側の僧兵らは、宇治橋の橋板を外して防戦・奮闘した(橋合戦)ものの、宇治川を渡河した平家軍に破れ、頼政は自害した。以仁王は、30騎ほどで南都を目指したが、光明山(山城町綺田)の鳥居の前で討たれた。宮側の加勢に来た南都の僧兵・大衆があと50町(約5.5km)にまで迫っていたとのことである。その後、清盛は、重衡に三井寺と南都を攻めさせた。南都の僧兵、衆徒は、重衡軍に蹴散らされて、多数の死者を出したほか、興福寺や東大寺が焼かれ、仏像・宝物・経典が灰燼に帰した。
 以仁王の令旨を受けた源頼朝や木曽義仲が平家追討の兵を挙げたが、清盛は、熱病に罹り、頼朝の首を墓前に供えるよう遺言して死亡した。北陸から京に進撃する木曽義仲軍を迎撃するため、平維盛を大将軍とする十万余騎が北国へ向かったが、倶利伽羅峠の合戦で大敗を喫し、加賀国篠原でも敗れて都へと敗走した。義仲入洛が近いとの報で、平家一門は大混乱、安徳天皇を連れ、皇位の象徴である三種の神器(八咫鏡、八坂瓊曲玉、草薙剣)を持って、大宰府を目指して落ちて行った。
 しかし、平家は、九州でも在地の武士に攻められて四国へ逃れた。讃岐国屋島に本拠を置いてから勢力を回復、義仲派遣軍を水島や室山で破り、摂津国福原に戻った。他方、義仲軍の狼藉に都人は反感を募らせ、義仲が法皇方を攻めたことから、頼朝に義仲追討が命じられた。頼朝は、範頼・義経を派遣、義仲は近江の粟津の松原で討ち取られた。
 範頼の大手勢5万余騎と義経の搦手勢1万余騎は、1184年(寿永3年)2月、生田の森と一ノ谷の間に10万余騎の軍勢を配置した平家軍を攻撃、鵯越の急斜面を駆け下りた義経の奇襲攻撃で平家軍は大混乱に陥り屋島に敗走した。敦盛ら多くの武将が討ち取られる中、重衡は生け捕りにされて京に連行され、三種の神器を取り戻そうとする後白河法皇に人質として利用された。平家は、義経に屋島を急襲されて長門国彦島に逃れたが、壇ノ浦の合戦で滅び、三種の神器のうち、草薙剣が失われた。
 他方、重衡は、鎌倉に連行され、頼朝と対面、重衡の人柄に感じ入った頼朝に命を助けられ、伊豆国に預けられて厚遇された。しかし、南都勢力の身柄引き渡し要求で、重衡は南都へと護送されて行った。途中、日野に赴き、壇ノ浦で助けられた北の方の大納言佐に会って別れを惜しんだ。南都の大衆は、仏敵重衡を鋸挽きや堀首(頭だけを出して地中に埋め、首を斬る刑)にすべきと詮議したが、老僧らがたしなめ、重衡は、1185年(文治元年)6月23日、安福寺近くの木津川のほとりで斬首された。
 重衡が斬首された地には、その首を洗ったという小さな「首洗池」があり、そのほとりに「不成柿」(ならずの柿)が植えられている。安福寺の住職さんにいただいた由緒には、「不生柿 右同所堤ノ南畠ノ中ニ在リ。伝ヘ云フ、此ノ所ニ於テ彼卿ニ柿ヲ勧ルニ即チ食セリ。後人其遺跡ヲ憐ンデ柿ヲ植テ証トナス也。然レドモ此ノ木遂ニ実ノラズシテ枯ル。又植継グトイヘドモ更ニ実ノラズ。仍テ号ルト云フ。」とある。
 ところが、「ならずの柿」に実がなったことがあった。「宇治・山城の民話」(宇治民話の会(文理閣))には概ね次のような話しが紹介されている。ならずの柿に実がなり、大勢の人が見物に来て「不思議や。」、「重衡さんの無念が晴れたのやろか。」などと話し合っていたら、翌年、日本は清国と戦争を始めた。10年後にも実が鈴なりになったところ、翌年ロシアとの戦争が始まり、若者がたくさん戦死した。昭和6年にも枝が折れそうに地をはうほどに柿が実り、日本は15年にわたる長い戦争に突き進んだ悲劇の前触れとなった。ならずの柿は、花を一生懸命散らしている。昨日も今日も、平和のために・・・・。
 2004年10月、「ならずの柿」を見に行った。驚いたことに、たくさんの実がなっていた。日本が行う戦争が近いことの警告であろうか。12月9日、小泉内閣は、自衛隊のイラク派兵を1年間延長することを決定した。また、2005年通常国会では、自衛隊の海外派兵を「本来任務」とする自衛隊法「改正」も計画しているとのことである。たわわに実った「ならずの柿」を見て、憲法9条の精神を世界に広め、戦争や武力の行使や武力による威嚇のない平和な世界をつくっていくために、私たち国民も一層の努力をしなければならないと思った次第である。

(2005年1月)