探訪 杉山 潔志

淀屋辰五郎が住んだ街

〔八幡市で暮らした淀屋辰五郎〕
 石清水八幡宮がある男山の東側に広がる京都府八幡市八幡柴座の市街地に「淀屋辰五郎旧邸」の石碑が建てられています。碑に書かれている淀屋辰五郎とは、江戸時代前半期の大坂の豪商淀屋の5代目淀屋三郎右衛門(廣當、通称辰五郎)のことです。


切山地区から見た笠置浜と笠置大橋
 ▲ 淀屋辰五郎旧邸門・石碑
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〔淀屋の始まり〕
 初代の淀屋常安は、山城国岡本荘(現在の京都府宇治市五ケ庄)に生まれ、豊臣秀吉が行った伏見城築城工事で名を上げ、淀川の付け替えや堤防工事なども手掛けました。慶長伏見大地震(1596年)後、大坂の十三人町に移って材木商を営み、大坂冬の陣・夏の陣では家康の茶臼山本陣、秀忠の岡山本陣の築造や戦場の武具処分を引受け、家康の信頼と莫大な富を手にしました。家康は、常安に岡本三郎右衛門の名乗りを許し、山城国八幡の山林300石を与え、大坂での干魚や米市場の権利や中之島開拓を認めました。
 2代目言當(个庵)は、海部堀川を開削し、海産物市場や青果市場を設け、諸藩の大阪藏米を担保に大名貸しや米先物取引も始め、資産を増やしました。

〔大坂所払い・闕所けっしょとされた5代目淀屋辰五郎〕

木津川左岸から見た右岸の笠置浜
 ▲ 淀屋辰五郎旧邸石碑
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 元禄15年(1702年)に淀屋の家督を継いだ5代目辰五郎は、宝永2年(1705年)、1年半で1万貫(現在価値で約100億円)の遊興費を使ったことが「町人の身分に過ぎたる振る舞い」として幕府から大坂所払い・闕所の処罰を受けました。
 闕所は、死亡や逃亡・追放などによって権利者を欠く状態となった土地や所領・所職などの資産・権利をいい、江戸時代には死刑や追放刑に伴う財産没収の付加刑として行われました。当時の淀屋の資産には諸説ありますが、金12万両、銀12.5万貫、土地は北浜に2万坪、伏見・和泉・八幡などに400町歩、家屋1万坪、米蔵730戸、材木2千貫、千石船150,多数の鉱産物、美術品、薬種、刀剣などと莫大であり、大名への貸金は銀1億貫(現在価格で約100兆円)と試算されています(関西・大阪21世紀協会のホームページ・「なにわ大坂をつくった100人」より)。闕所によって、幕府は莫大な資産を手にし、返済困難に陥っていた諸藩の大名の借金は帳消しとなりました。


木津川右岸から見た左岸の笠置浜
 ▲ 神應寺墓所・淀屋の墓碑
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木津川右岸から見た左岸の笠置浜
 ▲ 神應寺墓所・淀屋墓碑説明板
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〔八幡における5代目淀屋辰五郎の暮らし〕
 所払いの後、江戸に住んでいた辰五郎は、正徳5年(1715年)、日光東照宮100年祭の恩赦で常安が家康から拝領した八幡の山林300石の返還を受け、翌享保元年(1716年)、八幡に住居を構えました。杉山谷不動尊に近い「ひきめの滝」付近から竹樋で邸に水を引いたといわれ、その時に用いた「砧の手水鉢」が松花堂庭園内に残されています(2024年2月現在、特別拝観日を除き内園復旧工事のため「砧の手水鉢」の見学はできません)。辰五郎は八幡に戻った1年後の享保2年12月に30歳(35歳説も)で死亡し、男山北裾の神應寺墓所に葬られました。神應寺墓所にある墓石には「潜龍軒咄哉个庵居士(せんりゅうけんとっさいこあんこじ)」の戒名が刻まれています。「今は身を潜めているが、いずれ世に打って出る」との辰五郎の思いが込めらた戒名といわれています(八幡散策のホームページ・「八幡をぶらり」の欄より)。
 なお、幕府の闕所処分を予想した4代目重當は番頭・牧田仁右衛門に暖簾分けし、仁右衛門は出身地の伯耆国倉吉で淀屋清兵衛を名乗って事業を起こし、子孫が淀屋橋に出て木綿問屋を営み、幕末には朝廷側に倒幕資金を提供して暖簾を降ろしたといわれています。


〔江戸時代の罪と罰〕
 江戸幕府は、しばしば「倹約令」や「奢侈禁止令」を布告して、農民や町民の衣食住や娯楽遊戯などを統制しました。統制令には、しばしば「身分不相応」が用いられており、統制が身分制社会の維持をも目的としていたことが窺われます。
 5代目淀屋辰五郎が所払い・闕所に処せられた江戸時代には罪刑法定主義の考え方はありませんでした。どのような行為が「町人の身分に過ぎたる振る舞い」に該当するのか管見ではわかりかねますが、「過ぎたる振る舞い」に該当する行為を明確に定めた「法度」や「触」は発布されていなかったと思われます。

〔近代刑法における罪刑法定主義〕
 罪刑法定主義は、犯罪となる行為とこれに対する刑罰を定めた法令によらなければ処罰できないという刑法の原則です。日本では、旧刑法(明治13年太政官布告第36号)第2条に「法律ニ正條ナキ者ハ何等ノ所爲ト雖モ之ヲ罰スルコトヲ得ス」と規定され、罪刑法定主義が導入されました。日本国憲法第31条は「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命もしくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない。」と定めています。
 罪刑法定主義は、処罰の対象となる犯罪とそれ以外の自由な行為を予め知らせて国民の自由を保障し(自由主義原理)、法律で定めることで犯罪の対象と刑罰の重さに国民の意思を反映させる(民主主義原理)という原理にもとづいています。罪刑法定主義の原則から、慣習刑法の禁止、刑罰における類推解釈の禁止、法の不遡及などの原則が派生しています。

2024年3月