探訪 杉山 潔志

禁野・牧に成立した入会権


平安朝御牧馬寮故址石柱
 ▲ 平安朝御牧馬寮故址石柱
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〔古代の美豆野〕
 京都府久世郡久御山町中島向野には「平安朝御牧馬寮故址」と刻まれた石柱が建てられています。この地域は古代には美豆野と呼ばれていました。美豆野は、概ね、旧久世郡御牧村(明治9年に中島村・野村・森村・相島村など13村が合併して発足)と旧綴喜郡美豆村(明治22年に美豆村・際目村・生津村をもって発足)の地域を指し、天長年間(824年〜834年)に禁野(しめの・きんや)(古代、天皇の遊猟などのために一般の出入・狩猟を禁じた原野)とされました(森田喜久男「日本古代の王権と鷹狩」鷹・鷹場・環境研究2)。「故址」説明板によると、馬寮は石柱の西の藤和田、北川顔(きたかわづら)付近にあったと考えられています。

〔平安朝御牧馬寮〕
 禁野とされた美豆野には皇室の牧場が設置され、延喜式巻第48には、山城国美豆厩が畠11町・野地50町余で、左右馬寮(めりょう・うまのつかさ)が夏季に太らない馬や諸祭料馬を放飼するとの記述があります。平安時代の女性歌人・相模は、
  さみだれは美豆の御牧の真菰草(まこもぐさ) 刈りほす暇もあらじとぞ思ふ(後拾遺集)
と詠んでいます。久御山町森宮東にある玉田神社は、往古には美豆野神社と称され、その境内には、
  かりてほす美豆の御牧の夏草は しげりにけりな駒もすさめず(内裏名所百首)
と刻まれた歌碑が置かれています(玉田神社のホームページより)。
 美豆厩は、「延喜式」に規定された馬寮所管の御牧(勅旨牧)や近都牧、兵部省所管の馬牛を飼育する諸国牧には該当しませんが、”御牧”と呼ばれていたようで、これが”御牧”の地名の由来と思われます。

玉田神社・石柱と歌碑
 ▲ 玉田神社・石柱と歌碑
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平安朝御牧馬寮故址説明板
 ▲ 平安朝御牧馬寮故址説明板
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〔朝廷の禁野政策の変遷〕
 古来、山川薮沢は人々の生活を支える場であり、官民双方が利用できる空間でした(養老雑令9条)が、天武・持統朝は、狩猟(鷹狩)のため、一定区域を「禁処(禁野)」として庶民の伐木や漁労・狩猟を禁じました。
 桓武天皇は、禁野政策を転換し、延暦3年(784年)、諸国の国司に対し、林野を広く占有して庶民の生活手段を奪うことや多くの田畑の開墾経営による人民の生業を妨げることを禁じました(続日本紀・桓武天皇延暦3年11月3日条)。延暦17年(798年)には、豪族が山川薮沢を独占して農民を困窮させることを禁じる通達が出されました(12月8日太政官符)。以後、同様の通達(太政官符)が出され、禁野や官私の牧は、農民らが草木などの生活物資を得、放牧などを行う土地(入会(いりあい)地)として認められたのです。(安田初雄「古代における日本の放牧に関する歴史地理的考察」福島大学学芸学部論集第10号、前掲「日本古代の王権と鷹狩」など参照)。


〔民法に規定された入会権〕
 古代に認められた入会地は、その後も変容しながら承継されてきました。入会権は、村落共同体もしくはこれに準ずる共同体が山林原野水面(入会地)を総有的に支配・共同利用する慣習的な権利です。入会権の内容や管理は各地の慣習によるため、明治に至って入会権を民法典にどのように規定するか問題となりました。
 最終的に、入会集団を入会地を所有する共有の性質を有する入会権(民法第263条)と入会集団が他者の所有地を入会的に利用する地役的性質を有する入会権(民法第294条)が規定されましたが、いずれも各地方の慣習に従うとして、統一的内容は規定されていません。地方自治法第238条の6は、市町村住民が旧来の入会的慣例により使用する旧慣使用権を規定しています。


〔入会権の将来〕
 入会慣習が消滅すれば入会権も解体消滅します。国民生活が入会地から得られる草木・薪炭・養魚などに依存しなくなってきており、民法制定当時、全国で200万ヘクタールあった入会林野は現在では半分以下に減少したと指摘されています(中村忠「入会権と入会慣習」高崎経済大学論集第45巻4号)。
 入会権は物権とされています。物権は、権利の設定や変動を登記によって公示し、登記を対抗要件とするのが原則ですが、入会権の登記は認められていません。入会集団による土地管理の事実が入会権の公示方法と解されていますが、このような公示方法は明確性に欠け、不動産取引の安全や円滑の上で問題があります。昭和41年には、入会権を消滅させ、これに代わる権利の設定・移転などを目的とした入会林野近代化法が施行されました。
 国民生活の変化と立法によって、近代的な権利や法原理で捉えられない入会地や入会権は今後もさらに減少すると思われます。

2023年5月