探訪 杉山 潔志

明智光秀・終焉の地
〔謎が多い明智光秀〕
 2020年のNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」は、明智光秀の生涯を描いた物語です。ところが、ドラマと異なり、光秀の父母や出世年は判然とせず、出生地は岐阜県可児市の旧明智荘説が有力ですが、他の出生地説もそれなりの根拠を有しています。青少年期の光秀にも不明な点が多く、確かな生活ぶりがわからないというのが実情です。

伏見区小栗栖にある明智藪
▲伏見区小栗栖にある明智藪
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〔本能寺の変と光秀の終焉の地〕
 光秀は信長の家臣となり数々の戦に従事するなどして信長の信頼を得、丹波を攻略して拝領し、滋賀郡や南山城を含めた地域を支配しました。光秀は、天正10年(1582年)6月2日、本能寺を急襲して信長を死に追いやりましたが、中国攻めの敵方・毛利氏と和睦して機敏に引き返した(中国大返し)羽柴秀吉を中心とする軍勢と6月13日に山崎で合戦して敗れました(山崎の合戦)。
 敗れた光秀は居城の坂本城を目指して落ち延びましたが、途中の小栗栖で落ち武者狩りに遭って負傷し、股肱の家臣・溝尾茂朝の介錯によって切腹し、その首は藪に隠されましたが、農民に発見され、秀吉に届けられたと伝えられています。光秀が自害した場所は現在の伏見区小栗栖小阪町と伝えられ、「明智藪」と言われています。

〔光秀生存伝説の存在〕
 ところが、光秀生存説も存在しています。和泉伝承誌は、光秀が山崎の合戦後に京の妙心寺に現れて和泉に向かったと記しています。
 また、明智藪で自害したのは影武者で、本人は出生地の美濃国武儀郡中洞村(現:岐阜県山県市中洞)に落ち延びて荒深小五郎と名乗って隠棲し、関ケ原合戦で東軍に味方するため村人を率いて向かう途中で洪水に遭って溺死し、遺体が中洞村に運ばれて塚(桔梗塚)が築かれたという伝承があります(尾張藩士・天野信景の1709年ころの随筆集「塩尻」に記された中洞の禅僧から聞いた話)。中洞では、現在でも「明智光秀公供養祭」が続けられているそうです。
神明神社藻隠井戸跡
 ▲神明神社藻隠井戸跡
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 宇治市宇治弐番にある専修院には、巨椋池を渡って落ち延びた光秀が境内の藪に隠れ、敵勢に知らせなかった住職に感謝して「歯痛や発熱が治癒する」と告げたとの伝承があり(京都新聞:ふるさと昔語り162「歯痛神」)、その南西の宇治市神明宮西にある神明神社(神明皇大神宮)の境内には、光秀が逃れる途中に身を隠したと伝えられる藻隠池があります。専修院や神明神社は山崎から坂本への道筋にはなく、これらの伝承は和泉への落ち延び説に引用されることもあります。
 このように、光秀の出生や死亡には異説があり、現在ではその事実を確定しがたいといえます。

〔時効の制度〕
 光秀出生地説や生存説のように、長期間の経過によって、証拠の散逸、関係者の死亡や記憶の劣化、思い違いなどによって事実が判然としなくなることがあります。法律上のトラブルの場合は事実が判然としないとの理由で解決をしないという訳にはいきません。このような場合、法律は一定の時間の経過に法律効果を認める時効の制度を用意しています。
 民法は、一定期間の権利の不行使によって権利を消滅させる消滅時効と一定期間の権利行使に相当する事実の継続に対して権利を取得させる取得時効を定めています。債権の消滅時効期間は2020年4月施行の改正民法で原則5年とされました。
 刑事法では刑事訴訟法に公訴時効が、刑法に刑の時効が定められています。公訴時効は、2010年4月に改正され、殺人罪などの公訴時効が廃止され、殺人以外で人を死亡させた罪の公訴の時効期間が延長されました。刑の時効の改正もあり、死刑の時効は廃止され、無期、10年以上の懲役または禁錮刑の時効期間が延長されました。
 
山科区勧修寺にある光秀の胴塚
▲山科区勧修寺にある光秀の胴塚
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〔時効制度の考え方〕
 民法の時効制度は、①長期間継続した事実状態を法的に承認することが法律関係の安定に資すること、②権利の上に眠る者は法の保護に値しないことなどが根拠とされています。
 公訴時効は、①時の経過によって犯罪の社会的影響が微弱化して刑罰権が消滅すること、②時の経過とともに散逸する証拠の収集に対する国の負担を軽減することなどが根拠とされ、刑の時効は、時間の経過によって犯罪に対する社会の規範感情が緩和され、やがて必ずしも現実の処罰を要求しないまでになるとの考え方が有力です。
 ドイツがナチス時代に行われた犯罪のうち謀殺罪について、公訴時効期間を遡及的に延長し、1979年の法改正によって公訴時効を遡及的に廃止したことは有名です。時効制度は、それぞれの国において社会や国民の意識の変化によって時効期間などの制度が改正されているのです。
 
2021年6月