探訪 杉山 潔志

残念石(ざんねんいし)
〔全国各地の存在する残念石〕
 築城の際の石垣などに使われる予定で切り出されたものの、さまざまな理由で使用されなかった石があります。このような石は“残念石”と呼ばれています。残念石は、石材の切出地や城、運搬経路の周辺に存在しており、大阪城の周辺や石材産出地の小豆島などの残念石が有名です。
 
大山崎町・淀川河川公園にある残念石
▲大山崎町・淀川河川公園にある残念石
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〔京都府南部地域にある残念石〕
 京都府南部地域にもいくつかの残念石があります。

◆大山崎下植野中島の淀川河川公園にある残念石
 徳川2代将軍秀忠の命で、1620年(元和5年)に始まった大阪城の再築の際に、廃城となった伏見城の城石を運搬中の筏が転覆して落下したものと推定されています。”落ちる”ということが落城を連想させ、縁起が悪いと回収されなかったものが残念石になったようです。河川公園には大きな石が多くありますが、残念石の案内板や説明板がありません。河川公園の管理人さんにどれが残念石が教えていただきました。

◆伏見区横大路草津町の桂川左岸の羽束師橋下流の「草津みなと残念石」
 この地は、草津湊という古くからの水運・陸運の中継地で、桃山時代から江戸時代には魚市場があり、魚市場遺構の石碑が立てられています。ここの残念石は、1662年(寛文2年)に発生した寛文近江・若狭地震(寛文京都地震)で破損した二条城の修築が大垣藩に命じられ、瀬戸内海の島々や東六甲、加茂などから水路で運ばれた石材が、草津湊で陸揚げされる前に桂川に落下したもののようです。2015年に桂川から引き揚げられ、「草津みなと残念石」として河川敷に置かれています。

伏見区の桂川河川敷草津みなと残念石
▲伏見区の桂川河川敷草津みなと残念石
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◆木津川市加茂町大野にある残念石
 京都府道天理・加茂・木津線を木津川上流に向かい木津川市加茂町大野に入った付近の府道脇に残念石の案内標識があります。そこから赤田川が木津川に注ぐ河口付近の河川敷に下りて行くと大きな残念石がいくつも散乱しています。
 これらの残念石は、大阪城再築の普請総奉行を命じられた築城の名人・藤堂高虎が近くの大野山から切り出して運び出したものの、搬出されずに残念石となったものです。当時の加茂町は藤堂藩の領地で、高虎は常念寺に逗留して石材の切り出しや搬出を指揮したと伝えられています。常念寺の境内には、大野の残念石が説明板とともに置かれています。また、加茂町兎並にある燈明寺の墓所には代々の住職の供養碑とともに高さ2.5m余の巨大な藤堂高虎の供養碑も建立されています。
 「赤田川樋門改修及び府道天理加茂木津線バイパス整備」計画によって刻印が確認されている3個程度の残念石だけを保存し、他の残念石は埋められる予定とのことで、地元で保存運動が行われています(「NPO法人ふるさろ案内・かも」のホームページより)。

 
木津川市加茂町大野の残念石
▲木津川市加茂町大野の残念石
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〔残念石が残されている理由〕
 全国各地に残念石が残されている理由の1つは、“落ちる”との縁起をかついで運搬中に落下した石材を城の石垣に使わなかったためです。淀川河川公園の残念石などがこれに該当するようです。  2番目の理由は、天下普請で城が築城されたことと関係がありそうです。大阪城の再築は天下普請として行われ、幕府によって64の大名が普請に動員されました。各大名は築造の技法や速さ、石垣の大きさや美しさを競い、運搬時の落下分も考慮して、計画以上の石材を切り出したと思われます。小豆島や加茂町大野の残念石はこの理由によるものでしょう。
 
〔現在では生じる見込みのない残念石〕
 ところで、日本国憲法第90条は会計検査院に関する規定を置いています。会計検査院は、国や政府関係機関の決算や独立行政法人などの会計の検査などを行い、決算報告書の作成を任務とする内閣から独立した国家機関です。大日本帝国憲法も会計検査院に関する規定を置いていましたが、政府の機密費は検査の対象外とされていました。
 会計検査院は、2019年4月に、国の補助金の対象の「企業主導型保育施設」が2018年10月時点で開設後1年以上経過した抽出173施設のうち72施設で1年間の定員充足率が50%未満であるとして内閣総理大臣への改善処置を要求しました。また、2019年12月には、参議院決算委員会が求めた東京オリンピック・パラリンピックに向けた取り組み状況等に関する会計検査報告を発表しています。
 このような会計検査制度のもとでは、藩財政の無駄につながる残念石の存在は許されないでしょう。残念石は、経済合理性にかなった財政支出を乗り越えて藩の威信を競い合った大名の心意気を現代に伝えているようです。
 
2020年10月