探訪 杉山 潔志

藤戸石
桜馬場から見える醍醐山
▲桜馬場から見える醍醐山
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〔豊臣秀吉が花見を行なった醍醐寺〕
 京都市伏見区醍醐にある醍醐寺は、真言宗醍醐派の総本山です。貞観16年(874年)に空海の孫弟子理源大師聖宝が笠取の山頂で醍醐水を得、小堂宇を建て、准胝・如意輪の両観音を迎えて開山したことに始まると伝えられています。山は醍醐山と名付けられ、山頂付近が修験者の霊場として発展しました(上醍醐)。なお、「醍醐」は仏教典に由来す最高の味覚の乳製品を指す言葉です。
 醍醐天皇が手厚い庇護を与へ、上醍醐に伽藍が建立され、山麓にも釈迦堂や五重塔が造られました(下醍醐)。応仁・文明の戦乱で下醍醐は五重塔を残して灰燼に帰しましたが、豊臣秀吉の「醍醐の花見」のころから復興が始まり、三宝院などが建設されました。醍醐寺は、1994年12月、「古都京都の文化財」の構成遺産として世界遺産に登録されました。
 
〔三宝院に置かれている藤戸石〕
 醍醐寺三宝院の庭園には、阿弥陀三尊を表しているという藤戸石が置かれています。藤戸石の由来は源平合戦に遡ります。
 一ノ谷での戦いの後、源範頼勢は西国に兵を進め、平氏側は兵船を用い備前国児島に進出しました。範頼勢は、本土側の備前国西河尻・藤戸に陣を構えましたが、波が高く船もないため500m程の藤戸の海峡を渡れませんでした。範頼勢の佐々木盛綱は、地元の漁夫から馬で渡れる浅瀬ができる時間と場所を聞き出して案内させ、情報漏洩を防ぐため漁夫を刺し殺し、手勢6騎を率いて海路を押し渡りました。範頼勢もこれに続き、追われた平氏軍は讃岐国屋島へ逃げ延びました(岩波書店・平家物語(四)巻第十「藤戸」)。
 藤戸石は、漁夫殺害現場にあった石と言われ、武家社会では一番乗りを果たした盛綱の栄光の象徴の意味もあって"天下の名石"と評されました。室町時代後期には実権を握った細川管領邸に置かれ、京に昇った織田信長が奪って足利義昭のために造営した二条邸に運ばせたと伝えられています。秀吉は、これを聚楽第に運び、さらに造営中の三宝院庭園の主人石としたとのことです。
三宝院・庭園の藤戸石
▲三宝院・庭園の藤戸石
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〔謡曲「藤戸」〕
 殺された漁夫にとっては、藤戸石は悲劇の象徴です。謡曲「藤戸」は、この悲劇を描いたものです。
 佐々木盛綱は、藤戸の戦いの先陣の功によって藤戸の領地を賜り、春吉日に領地入りしました。すると老婆が現れ、わが子を殺したと盛綱を咎めるのです。当初は知らぬと言っていた盛綱も、老婆の再三の追及と哀れな様子に心を打たれ真実を告白します。老婆は半狂乱となって自分も殺せと騒ぎ立てます。盛綱が藤戸の浜辺で管弦講を催し般若心経を読誦していると、漁夫の亡霊が現れ、回向を賜ったことに感謝して成仏しました(謡曲「藤戸」)。
 漁夫殺害伝承には異論もあるようですが、歴史を見れば、庶民が"軍事的合理性"のため犠牲を強いられたことは数多くあります。謡曲「藤戸」は、戦争の栄光の影にある理不尽な庶民の犠牲を告発しているのです。
 
〔安倍首相の憲法9条改憲構想〕
 日本は、明治維新以降、戦争を繰り返し、アジアの人々や日本国民に多大な惨禍をもたらしたアジア太平洋戦争に敗れ、第9条に戦争の放棄・戦力の不保持を定めた日本国憲法を制定しました。
 しかし、その第9条のもとで自衛隊が作られ、現在では専守防衛の枠を超えるような実力組織になっています。2015年、安倍首相は、米軍の武器防護や集団的自衛権を認める安保法制を成立させました。さらに、憲法9条に自衛隊条項を付加する憲法改正を発議しようとしています。
 自衛隊条項の付加は、第9条の精神を否定するものです。「日米同盟」や安保法制、自衛隊の装備などの現状に照らし、日本を「戦争をする国」へと導く危険性が大きいといえます。戦争や武力の行使は、庶民にも理不尽な犠牲を強い、紛争解決にはほど遠い結果をもたらしています。日本が力を注ぐべきは、戦争の違法化や平和的解決のための国際的・地域的制度の構築に向けた取り組みであると思われます。
 
2018年4月