探訪 杉山 潔志


文覚上人の罪と罰

▲ 恋塚寺山門 写真をもっと見る
 科学・技術や文化が発達した現代でも犯罪がなくなることはなく、毎日のようにマスコミを賑わしている。2004年の秋から小学生を狙った事件が次々と発生し、社会を震撼させた。まず、2004年11月、奈良市で帰宅途中の小学1年生の女子児童が誘拐され、遺体で発見されるという事件が発生した。間もなく、携帯電話の通信記録から新聞販売店店員の小林薫が割り出された。2005年11月には広島市で下校中の小学1年生の女子児童が殺害され、ペルー国籍のホセ・マヌエル・トーレス・ヤギが逮捕された。2005年12月には、栃木県今市市の小学1年生の女子児童が行方不明となり、翌日に茨城県常陸大宮市の林道脇で遺体が発見される事件が起こった。さらに、2006年5月には、秋田県藤里町で小学校1年生の男子児童が殺害され、1軒おいた隣家に住む畠山鈴香が逮捕された。畠山は、小学校4年生の自分の娘も殺害していたという。これらのうち、広島市の事件では、2006年7月4日、広島地方裁判所がヤギ被告人に無期懲役を言い渡した。また、奈良市の事件では、2006年9月26日、奈良地方裁判所が小林被告人に死刑判決が言い渡された。
 現代の刑罰は、犯罪行為を行った行為者に科せられる。刑罰を科すには、行為者が予め刑罰法規で犯罪とされた行為に該当する(構成要件該当性)違法な行為(違法性)を行った場合であって、行為者に責任を帰すことができるもの(有責性)でなければならない。構成要件に該当する行為であっても、正当防衛に当たれば違法性がなく、処罰できない。また、責任を問うためには、責任能力や犯罪行為に対する認識(故意)や落ち度(過失)が認められなければならない。犯罪者に対しては、それぞれ法律に定められた刑罰の範囲で、被害の程度や被害者の被害感情、被害弁償の程度、犯罪者の反省の気持ち、更生の可能性などの情状を考慮して具体的な刑罰が言い渡される。広島市の事件で無期懲役が言い渡されたのに対し、奈良市の事件で死刑が言い渡されたのは、続発する小学生を被害者とする犯罪を抑止するために一般予防の見地が重視されたためであろうか。


▲恋塚(正面) 写真をもっと見る
 このような現代刑法の罪刑法定主義、行為主義、責任主義などの原則は、近代になって確立したものである。日本でも江戸時代以前は、言論や思想が処罰の対象となったり、親族や村落が連帯して責任を問われたりした。また、中世ころまで、悪霊などによって犯罪が引き起こされるという犯罪観があり、犯罪の場所となった建物の取り壊しや焼却、犯罪者の共同体からの追放などが、穢れに対する祓いや清めの目的で行われていたという。
 武士が台頭を始めた平安時代の末期は、公家の法である律令から、武士の習慣や実態を踏まえた武家の法が形成されていた時代である。この時代を生きた人に文覚上人という僧がいる。文覚上人は、「平家物語」などにも登場し、朽ち果てていた高尾の神護寺を再興したり、源頼朝に平家追討の挙兵を勧めたことで知られている。この文覚上人は、もともと摂津を根拠としていた源氏の渡辺党に属する遠藤盛遠という鳥羽天皇の皇女上西門院に仕える北面の武士であった。18歳のころに、同じ渡辺党で鳥羽に住む同僚の渡辺左衛門尉源渡の妻である袈裟御前に一目惚れをして心を奪われ、渡と別れて一緒になるように迫った。悩んだ袈裟御前は、「今夜、寝所に入って夫を殺して。」ともちかけた。盛遠は、寝静まった部屋に侵入し、太刀を突き立てて夜具をはいだところ、身代わりとなっていた袈裟御前の血まみれの姿に愕然としたのであった。おのれの愚かさを知った盛遠は、出家して那智や大峰などで荒行に励んで、文覚上人と名乗るようになったということである。


▲袈裟御前の首塚(恋塚) 写真をもっと見る

 京都市伏見区下鳥羽城ノ越町に利剣山恋塚寺という浄土宗の寺がある。恋塚寺は、袈裟御前の菩提を弔うために文覚上人が建てたと伝えられ、袈裟御前の首塚といわれる宝筐院塔があり、恋塚と呼ばれている。恋塚寺には、恋塚のほか、文覚上人、袈裟御前、源渡の木造が安置され、恋塚寺絵伝や鳥羽恋塚碑銘という版木があるとのことだ。恋塚を見ていると、盛遠と袈裟御前の物語が目に浮かんでくるようだ。ところで、この恋塚寺以外にも、南区上鳥羽岩ノ本町にある浄禅寺も恋塚寺と呼ばれている。この寺にも盛遠と袈裟御前の話が伝えられ、恋塚や恋塚碑も存在している。ただし、近世の地誌「雍州府志」によると、「古上鳥羽池中有大鯉魚 時々作妖怪 土人殺之 為築塚云」とあり、妖怪となった鯉を退治して塚を築いたもので、もとは恋塚ではなく鯉塚であるとも言われている。
 盛遠の行為を現代の刑法感覚からみてみよう。まず、盛遠は、渡を殺害する意思で太刀を付き立てたので袈裟御前に対する殺意が認められるかという問題がある。殺意が認められなければ、殺人罪ではなく、過失致死罪となる。これは、客体の錯誤と呼ばれる問題だ。この場合、盛遠には寝ている人を殺すという認識があったので、袈裟御前に対する殺意が認められる。通常であれば袈裟御前に対する殺人罪が成立するということになろう。ところが、袈裟御前には夫の渡に代わって殺されるという意思があった。ただし、盛遠はそれを知らない。袈裟御前が有していた殺されてもよいという承諾・同意をどのように考えたらよいか。このような場合には、承諾殺人罪が成立するという考え方、殺人未遂罪が成立する考え方、殺人罪が成立するという考え方がある。処罰の対象を犯意にもとづく行為とするのか法益侵害という結果と考えるのか、また、承諾殺人の故意について殺される者が同意している認識を要するのかなどの考え方によって結論が異なるのである。
 次に、犯罪行為を行った盛遠が出家し、袈裟御前の菩提を弔ったことで何故処罰を免れたのであろうかという問題がある。律令でも殺人は処罰の対象とされているし、後に成立した武家の法である「御成敗式目」でも殺人は犯罪行為である。ただし、律令では被害者側の訴えによって訴追が行われたようで、渡が訴追の申出をしなかったのかもしれない。あるいは、公家政治から武家政治への転換期であった時代では国家の刑罰機能がうまく作用しなかったのかもしれない。また、あるいは、当時の人々は犯罪を行った盛遠が出家して文覚上人となったことで、罪が祓い清められたと考えられたのであろうか。
 恋塚をみて、盛遠と渡の板挟みにあった袈裟御前の心情だけでなく、現代の価値観では推し量ることのできない武家社会成立期の人々の考え方、行動に思いをはせてみた次第である。

(2006年11月更新)